「濁点」としてのデザインを目指して。
2018.03.16
NOTE / PHILOSOPHY

思えば、僕にとって絵を描くことは、常にコミュニケーションの一つだった。
物心ついた頃から絵を描くことが好きで、誕生日には図鑑を買ってもらい、それを見ながら自由帳に落書きをしていたが、それは自分の満足というよりは、だれかに見せて褒められることを目的にしていたように思う。小学校の図工の授業はうまく作ることよりも変わったものを作ろうと躍起になっていたし、高校に行っても周囲が勉強してる中、机に絵を描いては誰かに気づいてもらえること、そこから会話が始まることが嬉しかった。

大学を卒業して1年半、絵を描くことはデザインという仕事に変わり、フリーランスとしてグラフィックデザインの仕事を始めた時、自分にとって、コミュニケーションとしてのデザインを表すもっとも良い名前を探した。
そして、屋号を”DOTMARKS”、和名”濁点”とした。

濁点という名前に込めた意味は3つ。

その3つとは、
1、それ単体では成り立たないこと。
2、濁りがあること。
3、ミニマルな表現であること。

1、それ単体では成り立たないこと。

濁点とは、日本語の中で特定の仮名文字にくっついて、その音を濁らせる記号である。当然のことながら、その元になる仮名文字がなければ、この記号単体で音を表すことはできない。
僕は、デザインはそれ単体で成り立たないと考えている。もちろん何かを伝える上で表現の発明があった時、その表現はデザインそのものが歴史として残ることはあるが、本来何かを表現するということはその内容ありきであって、その手段の発明が、最終的に表現の発明につながるものである。
僕は、デザインはクライアントとデザイナーのコラボレーションだと考えている。彼らが伝えたいことを、もっとも最良の形で表現すること。あるいは表現するための技術的制約から、これまで考えもしなかった手法を発明すること。そこにこそデザインの面白さがある。

2、濁りがあること。

デザインは、それが伝えるための手段である以上、伝わることこそが重要なのは言うまでもない。複雑な内容を、ひと目で理解することができるビジュアル表現は、情報が溢れかえる現代でますます重要な職能だろう。
しかし、デザインを伝えたい人と受け取る人のコミュニケーションとして見たとき、本当にそのスパッとわかりやすいものが良いのかどうかは疑う余地がある。人は自分の興味のないものには極力関わりたくない。内容がわかりやすすぎると、わかりやすいがゆえに、自分には必要ないものとして切り捨てられ、接点を持つ段階まで達することができない。その時に必要なものが、コミュニケーションのフックになる違和感である。「この広告はなんだ?」「何かいつもと違うな」を感じさせる、普通でないアクセントが、人との接点を作り出す。デザインは、完全に清らかな状態ではなく、そこに何かあるのだと感じることができる濁りが必要である。

3、ミニマルな表現であること。

「ミニマルな表現」とは、デザイン自体の構成要素が少ない、といった意味ではない。ここでいうミニマルとは、「誇張表現でないこと」、すなわち中身に対して過大に発信をしないこと。そしてそれは「誇張」ではなく「増幅」であり、良くない商品をパッケージをカッコ良くすることで売れたり、自分が共感できないものに対してそれに反した表現をしないこと。
点を二つ打つことで、「た」は「だ」になる。それ以上でもそれ以下でもなく、ただこの音の性質を変えることを表現するだけ。デザインが伝えるための表現か、それともその中身の一部になりうるのかの線引は難しいが、本当に自分が共感できることに対して、そこに必要最低限のデザインを付け加えることで、意味が増幅され、人に正しく伝わる表現が、僕の目指すデザインである。

この3つは自分がデザインを生業にして目指したいことでもあるし、これからデザイナーという職業が生き残る上で必要になるだろうと思うものでもある。
そして、それをする上で、フリーランスというソロ活動でありながら、常に外部との協業体制でいることの表明として、DOTMARKSを「クリエイティブソロユニット」と標榜し、クライアントとの協業、そしてあらゆるクリエイターとの協業を通して、「濁点」としてのデザインを名実ともに体現していきたい。